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どうせなら楽しく生きてゆきたい。



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(「まじめ週間。」と題して、ここ1週間真面目なことを書いています。
 あんなことこんなこと恥ずかしいことなどをいっぱい詰め込んで、
 かなり長い文章になってしまっていることをお許し下さい。)



休みの日に、晴れて雲がゆっくりと流れている空を見たり、
出かけた先の景色がすごくきれいだったり、
どこかですごくおいしいものを食べたり、
そういったとても気分が良い時に、
ふと、施設の利用者さんたちのことを思い出すことがある。

あの人たちは、こういう感動はたぶんもう味わえないんだろうなあと思う。
いつも施設のエアコンの効いた季節感のあまり感じられない場所にいて、
ほとんど外にも出ずに、外出と言えば病院へ行くぐらいで、
楽しみと言えばテレビを見ることと、家族がたまに顔を出すことくらい。
そして「歳は取りたくないねえ。」と言っている。

自分が年老いた時のことを良く考える。

いつまで走ることができるんだろう。
いつまで歩くことができるんだろう。
いつまで自分の足で立つことができるんだろう。
いつまで食事ができて、話ができて、目が見えて、
いつまで笑うことができるんだろう。

いつか必ずそのすべてができなくなる時がやってくる。
それは他人事ではなく、噂でもなく、本当に確実にやってくる。
そんなことを考えると少し息苦しくなる。
そして思い直して、こうも思う。

どうせなら楽しく生きてゆこうと。

それは難しいことかもしれない。
これからもいろいろなことがあるだろう。
思い通りにいかないことがたくさん出てきて、
すごく悲しい出来事に出会うかもしれないし、
ひどく悩まなくてはならない日々が来るかもしれない。
でも、そういうことも全部含めて、

どうせなら楽しく生きていきたいと。




(長い長い話も今日で終わります。
 いろいろ書いたら、結構スッキリしました。
 お付き合い頂きましてありがとうございます。
 明日からは平常運転に戻ります。)

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(「まじめ週間。」と題して、ここ1週間真面目なことを書いています。
 あんなことこんなこと恥ずかしいことなどをいっぱい詰め込んで、
 かなり長い文章になってしまっていることをお許し下さい。)



介護施設の介護職員として働いている。
今の施設に来てすでに7年が過ぎた。

サラリーマン時代から漠然と福祉の仕事をしたいと思っていた。
いつか人の役に立てる仕事をやりたいと思っていた。
例えば、これは極端な例えではあるけれど、
発展途上の国へ行き、水脈を探り、井戸を掘り、水を出す。
そんな人間になりたいと思った。
今まで何キロも離れた川まで何往復もして水を運ばなければならなかったが、
井戸ができたことで、新鮮できれいな水がいつでも飲めるようになる。
自分が井戸を掘れば掘るだけみんなが喜ぶ。
そんな仕事ができればいいなと思った。
もちろん、これは極端でひどく単純な考えだと思う。
きっと実際は話がもっと複雑でさまざまな問題があるだろう。
それに、どんな仕事だって大小何かしら人の役に立っているわけだし。

子供が好きなので子供を相手にした仕事がしたかったが、
大学へ通わなければならなかったり、すぐには資格が取れないものばかりで、
働きながら資格を取れるようなものはなかった。
ホームヘルパーの資格なら3ヶ月ほど通えば取れることを知り、
サラリーマンを辞める少し前にホームヘルパー2級の講座に通った。
毎週土曜日に船橋の教室に行き、朝から夕方まで講座を受けた。
最後のほうでは実務研修があり、介護施設や訪問介護の現場へ行き、
実際に働いている人に付いて実習を受けた。
全部で130時間程の研修を受け、何度かレポートを提出して、
ホームヘルパー2級の資格を取ることができた。

資格を取得すると講座を実施していた企業から
介護の仕事の斡旋を受けることができる。
ホームヘルパーの登録が主なものだったと思う。
要は関連企業のヘルパーとして登録しませんかという誘いだ。
実際のホームヘルパーは圧倒的に女性が多いようだ。
パートで収入も不安定で、ホームヘルパー1本で生計を立てるのは困難だ。
正社員としていくらか安定した収入が得られる介護施設で働きたいと思った。
そのことで講師に相談をしたら、収入が少ないため家族持ちの人には
正直なかなか薦められないと言われた。
「田口さんは介護の仕事に向いている気がします。でも収入がね。」と。
収入が少ないことなんて判っていたけれど、ダメ押しされたようで落ち込んだ。

しばらく考えたけれど、そのままその時の仕事を続ける気にはなれなかった。
仕事の内容とか人間関係とか行き帰りの満員電車のこと。考えれば考えるほど、
介護の仕事のほうがやりがいがあって自分にも向いている気がしてきた。

仕事が休みの日を利用して求人募集を探し、いくつか面接に行った。
全くの未経験で年齢的にも不利だろうと思っていたが、
人手不足のためか、多くの施設がすんなりと受け入れてくれた。
最初に面接へ行った病院では、すぐにでも来て欲しいと言って、
ユニフォームのサイズまで聞かれたが、給料の額を聞いて断った。

安いとは聞いてはいたけれど、本当に驚くほど安かった。
奥さんに報告するのもイヤなくらいの安さだった。
もう少し待遇の良い所を探そうと、いくつか回ったがどこも変わらなかった。
いくつか回った後、自宅から車で10分ほどの今の施設で働くことに決めた。
給料は最初の所と変わらなかったが、履歴書に添付した志望動機をえらく気に入ってくれたのだ。

とりあえず3年間がんばろうと思った。
3年間の実務経験があれば介護福祉士の試験を受けることができる。
資格を取ればいくらか手当も出るだろうし、その3年間で昇級もあるだろうと。

無我夢中で働いて3年が経ち、介護福祉士の資格も取れた。
仕事にもだいぶ慣れ、この仕事は自分に合っているかもしれないと思い始めた。
次はケアマネジャーの資格だ。実務経験が5年になれば試験を受けられる。
でもあと2年あるので、その間に勉強を兼ねて他の資格を取ろうと思った。
4年目に福祉住環境コーディネーターという資格を取った。
わかりやすく言うと、どういうふうに階段に手すりをつければいいかとか、
ここをこういう風にして段差をなくしたほうがいいとか、
そういったことをコーディネートする資格だ。
まあ、この資格を持ってるから、どれそれの仕事ができるというわけではなく、
持っていれば、より便利な資格という感じだ。

割と順調だった。この仕事を始める時に持った目標みたいなものを
割と順調にこなしていた。でも、このあたりから仕事がきつくなって来た。
人手不足。仕事を始めた時からそうだったが、さらに深刻になってきた。
夜勤や日勤が入り交じった不規則な生活、全く消化できない有給休暇。
安い給料。どんどんと人が辞めて行った。

さらには理想と現実のギャップ。きちんと介護したいけれど時間が無い。
介護の本にはよくこんな言葉が出て来る。「残存能力を活用しましょう。」
その人の残っている能力を活かして生活してもらいましょうということだ。
何から何までこちらで介護してしまうと、ますますできなくなってしまう。
できることは自分でやってもらいましょうということだ。
自分でズボンは履けなくても片手を使って上着は着てもらいましょうと。

しかし、実際はなかなかうまくいかない。
お風呂に入る時、なるべく自分で服を脱いでもらう。
手を貸したほうが早いけれど、ここはぐっと我慢して自分でやってもらう。
でも他にもたくさんの人にお風呂に入ってもらわないといけない。
ここで自分で服を脱いでもらうのを待っていたら日が暮れてしまう。
そして手伝う。手を貸す。
すべてのことがこんな風に行われて行く。
理想と現実のギャップがどんどんどんどん広がって行く。
そして段々と気力がなくなってくる。

仕事をしていると時々すごくイライラする。
大声をあげている利用者にイライラし、
仕事がなかなか進まないことにイライラし、
動きの悪いスタッフにイライラし、
そんなことでイライラする自分にイライラする。
少しおかしいんじゃないか?少し病んでるんじゃないか?と思えるほど、
イライラする時がある。そしてすごく落ち込む。

先日、3度目のケアマネジャー試験でやっと筆記試験に合格した。
でも3年目に介護福祉士の資格を手にした時のような喜びは無かった。
資格が取れたとしても、ケアマネジャーの仕事に就くのか、
このまま現場で介護職員として働くのか、まだ決めかねている。
それ以前に介護職をこのまま続けていくべきなのかということで迷っている。
世間では失業している人が多いという時に贅沢な話だとは思うのだけれど。



(きょうは何だかずいぶんと暗い話になってしまいました。
 でもこれが仕事に対する今の自分の本音です。
 真面目な話をする「まじめ週間。」も残すはあと1日。
 すみませんが、もう少しだけお付き合い下さい。)
(「まじめ週間。」と題して、ここ1週間真面目なことを書いています。
 あんなことこんなこと恥ずかしいことなどをいっぱい詰め込んで、
 かなり長い文章になってしまっていることをお許し下さい。)



結局、父は寝具の訪問販売の仕事を辞めることにした。
元々、家庭的な雰囲気があったその寝具販売会社は、
寝具が売れなかったのは、一概に父親の販売のせいではなかっただろうし、
支部の管理のやり方も悪かった点があるというような話で、
結局我が家に500万円の借金は残らない形になった。嘘のような話だけれど。
それを聞いた時は心の底から本当にホッとした。
またスタジオで練習できるかもしれない。

借金は無くなったが仕事も無くなった父親は次に団地の管理の仕事を選んだ。
いわゆる管理人のおじさんだ。家族4人で東京郊外の多摩市に引っ越した。
団地の敷地内に管理棟があって、その中に管理人一家の住む部屋がある。

自分も大学を辞めた。辞めたというよりは行かなくなった。
大学の友達が数人心配して連絡してきたが、嘘の理由を告げた。
大学にはとりあえず休学届けを出して後日復学するという手もあったが、
戻れる状態ではなかったし、万が一大学へ行くとしても他の大学へ行くだろう。
そう思って退学届けは出さなかった。
結果的に授業料未納ということで退学処分になったんだと思う。
どうせ大学での生活に疑問を抱いていたし、未練は全くなかった。
でも、しばらくたってから高校時代の友達数人と遊んでいた時に、
ボウリングをしに行こうということになった。
学割のために学生証を提出する時に、家に忘れたといって嘘をついた。
友達には話してなかった。家に500万円の借金があったなんて言えなかった。

とりあえずは働こうと思った。でも何をしていいのかわからない。
アルバイトの求人を見てずいぶんと迷った。
まずは接客の仕事を除外した。自分には向いていないから除外した。
接客業を除くと以外と求人は少なかった。何日かが過ぎても決まらなかった。
でも、そうやって探しているうちにふと思った。
もしかしたら寝具の訪問販売をしていたかもしれないのだ。
それを思えば何でもできるような気がして来た。
思い切って自分には全く向いていない仕事をやってみてはどうかと。
そうして、自分の中ではかなりの接客業である喫茶店でのアルバイトを選んだ。

東京郊外にある家の近くで働くと自分がこのまま埋もれてしまいそうで、
通勤に1時間程かけて表参道にある珈琲専門店でアルバイトをすることにした。
トレーもうまく持つことができなくて最初は大変だったが、
徐々に慣れていって、一度にたくさんの注文もおぼえられるようになって、
ウエイターも身に付いて来て、そのあとはカウンターにも入って、
コーヒーを入れたり、簡単なサンドイッチ的なものも作るようになった。

しばらくして友人達に大学を辞めて喫茶店でアルバイトをしていると告げた。
もちろん借金うんぬんの話はしなかった。
家にお金を入れながら、結構楽しく穏やかに暮らした。
アルバイトで稼いだお金でライブなんかもたくさん観に行った。
渋谷のタワーレコードやシスコレコードで輸入版のレコードもたくさん買った。
練習スタジオを借りて、一度はあきらめかけたバンドの練習も続けた。
アルバイト先で彼女もできて、渋谷や原宿でデートもたくさんした。
将来に不安はあったけど楽しかった。

喫茶店で数年働いたあと、いくつかアルバイトを替え、
結局29歳までアルバイト暮らしをしていた。今で言うフリーターだ。
音楽に携わる仕事をしたいと思っていた。
ビクターの作曲教室とか、ヤマハのキーボード教室とかに通ったけれど、
自分に音楽の才能なんてあるわけもなく、その後普通の会社に就職した。




(とてもとても長い話になってしまいました。
 お付き合いいただいてありがとうございます。
 田口の「生い立ち」の話はこれで終わりです。
 その後は仕事をいくつか変えて今に至ります。
 省略しすぎですけど。まあ、その後の話は
 気が向いたらいつか記事にするかもしれませんが、
 まあ、たいした話ではないですから。)
 
(「まじめ週間。」と題して、ここ1週間真面目なことを書いています。
 あんなことこんなこと恥ずかしいことなどをいっぱい詰め込んで、
 かなり長い文章になってしまっていることをお許し下さい。)


大学へ入って半年もしないうちにショックな出来事が起きた。

実は中学生の時に父親が転職した。
長年働いていた町工場みたいな所を辞め、寝具の訪問販売を始めた。
全国展開している寝具販売で地域ごとに支部があり、
さらにその末端で販売員がいて、地域の家を訪問して寝具を売り歩くのだ。
今までと180度違う仕事を父は選んだのだ。経緯はわからない。
これは推測だが、長いこと働いても暮らしは良くならず、
この先には息子の高校進学、さらには大学進学なんてこともあるかもしれない。
そのことを考えて転職に踏み切ったのかもしれない。

少し広い家に引っ越しをして、自宅の一部を寝具の倉庫にする。
軽自動車に寝具を積んで地域の家庭を訪問して寝具を買ってもらう。
伝票の整理やらそのあたりは母親がやっていたように思う。
慣れない営業みたいなことをして父はきっと大変だったと思う。
でも心機一転、新しいスタートを切った感じで、
家族4人がこれからみんなでがんばろうという気持ちになり結束した気がした。
それから数年後、息子は一浪の末に大学へ進学することになった。

大学へ入って半年も経たずに、通い続けることに疑問を感じ始め出した頃、
寝具販売の会社の支部長やその上の偉い人が家に来ていて、
話があるのでちょっと来るようにと言われた。
父と母と妹と自分と会社の人たち数名がテーブルを囲んだ。
会社の人がこんな事実を告げた。
実は父親がやっている寝具の販売がうまく行っていなくて、
会社に500万円程の借金があると。

目の前が真っ暗になった。
500万円なんて額にびっくりしたし、借金なんて言葉にも驚いた。
こんなことってあるんだ。テレビドラマとか映画の話みたいだと思った。
もう終わりだ。何もかもが終わりだ。
バンドを組んでいたので、もうお金を払って練習スタジオで練習できないなと。

さらに会社の人はこんなことも言った。
そのお金を返すために、君もがんばって寝具の訪問販売をやらないかと。
おとうさんと一緒にがんばればどうにかなるかもしれないと。
父のことを少し恨んだ。パチンコなんてしてないでその分働いてくれよと。
父が毎日一生懸命に働いていたのを知っていたくせに、
たまに息抜きでパチンコへ行っていたことすら頭に来ていた。

無理だと思った。人見知りで引っ込み思案で小心者の自分が、
見ず知らずの家のドアをノックして、良い布団があるんで買って下さい。
そんなことは絶対にできないと思った。それだけは無理だと思った。
他の仕事をして借金を返済して行くと言い張った。
借金を背負い込んでいる側としては、選択肢はなかったのかもしれないが、
そこだけは絶対に譲れなかった。
普段はおとなしい自分だが、その時ばかりは大声で泣きながら訴えた。
母も妹も泣いていた。妹はその頃たぶん小学生の高学年。辛かったと思う。

つづく。
(「まじめ週間。」と題して、ここ1週間真面目なことを書いています。
 あんなことこんなこと恥ずかしいことなどをいっぱい詰め込んで、
 かなり長い文章になってしまっていることをお許し下さい。)



中学は地元の区立の中学へ行った。
中学生になってからは友達も多少変わった。
極々少ない親しい友達とクラスのそれなりに仲のいい友達。
中学生時代も成績は普通だった。

相変わらず映画は好きだった。テレビ映画をよく観た。
中学生なのでお金が無いから映画館には行けなかったけど、
毎月出る映画雑誌を買ったり、図書館でそれなりの本を借りてきたり。
親戚の映画好きのお姉さんが映画に時々連れて行ってくれた。
映画好きなお姉さんだけあって、後から思えば名作ばかりで、
今でもその時連れて行ってもらって観た映画は印象に残っているし大好きだ。
「ウエストサイド物語」「ラ・マンチャの男」「ネレトバの戦い」など。

家にあった映画音楽の安いレコードを聞きまくっていた。
観たことのない映画も音楽だけは知っていた。
映画音楽の他にも歌謡曲、フォークソングのようなものもよく聞いた。
父親の同僚の男性がガットギター(クラシックギター)をくれた。
初めてギターを手にして、少しずつコードが押さえられるようになった。

部活はバドミントン部。どうしてバドミントンを選んだのかはわからない。
中学生の大田区の大会でダブルスで3位になったことがある。
でも3位と言っても8チームくらいしかいなかったし、
1回戦で勝って2回戦で敗退で3位だったと思う。
そのくらいのバドミントンだった。

中学校のマラソン大会で、クラスの4人くらいがリレーに選ばれる。
そのオールスターチームがクラス対抗でリレーでマラソンをする。
たぶんひとり1周3キロくらい走って全員で4周走る。
メインのリレーの前にオールスターチーム以外の残った生徒たちが、
一斉に1周3キロを走る競技があって、その競技で校内1位になった。
オールスターメンバーを除いた中での校内1位という微妙なものだが、
田口が中学生時代に残した唯一の輝かしい記録だ。

自分のことを好きらしいという女の子がいるという噂を聞いて、
彼女のことがすごく気になり、気にしているうちに好きになって、
いわゆる両想いみたいなことになったことがあった。
両想いと言ってもデートらしいことはしなかったし、
付き合いらしいことはほとんどしなかった。
でも、交換日記みたいなことはしていて何冊か続いた。
でも、それ以上は別に何も無かった。
1度だけデートらしきことをしたことがあって、
有楽町に映画を観に行った。ものすごく緊張した。

この頃の将来の夢は覚えてないけど、たぶん映画監督とかだったかもしれない。



高校は都立の高校へ行った。
私立は学費が高くて両親に申し訳ないので、受かった時はうれしかった。
ここでも成績は普通。普通の高校で成績も普通。
今までほど人見知りで引っ込み思案で小心者ではなくなってきた。
高校の時に出会った友人の何人かは今でも付き合いがある。

1年生の時はバドミントン部。2年生から軽音楽同好会に入った。
フォークギター(アコースティックギター)を買ってもらった。
毎日ギターを弾いていた。コードもだいぶ覚えた。
エレキギターも欲しかったけど買えなかった。
友人とバンドを組んで毎日曲をコピーして音楽室で練習した。
チューリップとかその他もろもろ。
学園祭とかでも演奏をしたりした。ヘタだったけど。
担当はボーカル。ギターを弾きながら歌った。
女の子と付き合ったりとかはほとんど無かった。
高校時代=音楽っていう感じだった。


大学受験に失敗して一浪した。
本当は映画学科のある大学へ行きたくて受験したのだが、
当時、映画学科のある大学はほとんど無く、
受験した映画学科はものすごい倍率で、もちろん落ちた。
普通の文学部などに比べると入学金や授業料がかなり高かったし、
その上、その年になって入学金が一気に値上がりして、
もし万が一受かっていたとしても、お金が足りなくて入れなかったと思う。
方向転換して次の年には文学部をめざすことにした。
塾にも通わずラジオ講座みたいなものを聞きながら、
独学でなんとなく勉強して大学に入ることができた。

大学は偏差値で言うならこれまた普通の、都内にある大学だった。
専攻は英米文学部。英米文学部なんて言うと聞こえは良いが、
別に英語が得意なわけじゃなかったし、これといって他に無く、
将来の展望とか設計とかも無く、すぐに働くのは嫌なので、
とりあえず大学へ行って、4年かけて将来のことを考えようと思っていた。

一浪までしてせっかく入った大学。友達をたくさん作ろうと思った。
その甲斐あって半年も経たずに結構多くの友達ができた。
でも、都内にあるその大学は敷地がものすごく狭く、
キャンパスと呼べるようなスペースはどこにも無く、
週に1回程の体育の課程の時には広い運動場のある同じ大学の
埼玉のキャンパスまで電車で長い時間を掛けて行った。
もっと広いキャンパスがある大学に行きたいなあと漠然と思っていた。
また、自分でやりたいことも見えてこないで、高い授業料を払い続けて、
半年にして大学に通っていることへの意味に疑問が湧いて来た。
そんな時にショックな出来事が起きた。 

つづく。

(「まじめ週間。」と題して、ここ1週間真面目なことを書いています。
 あんなことこんなこと恥ずかしいことなどをいっぱい詰め込んで、
 かなり長い文章になってしまっていることをお許し下さい。)



田口の「生い立ち」。

生まれは東京都大田区。
1959年。昭和34年。11月。

田口家の長男として生まれる。
やさしい母親と少し短気だがユーモアのある父親の元に生まれる。
ガリガリに痩せていたが、病気らしい病気はしたことがなかった。
ひとりで遊ぶのが得意な子供だった。
人見知りで引っ込み思案で小心者だった。

今で言う「1K」的な間取りの小さな借家で暮らしていた。
今思えば、すごく貧しかった気がする。
たぶん父親は町工場を少し大きくしたような所で働いていて、
夜勤とかあって、「1K」なのに昼間に父親が寝ていることがあって、
狭いのにイヤだなー、と思った記憶がある。

小学生になってから引っ越したけど、広さ的にはあまり変わりがなかった。
でも、この頃から家には常に猫がいた記憶がある。母親が猫好きで、
その辺の猫に餌をあげているうちに家に住み着いたっていう感じだ。
昔は「完全室内飼い」なんて無かったんじゃないかと思う。
猫は自由に出たり入ったりしていたんじゃないかと思う。
そんなわけで猫がいつもそばにいた。
自分で言うのもなんだが、子供の割には猫との接し方を心得ていたと思う。
やたらと猫を抱いたりいじったりするのは、きっと猫が嫌がるだろうと思い、
ある程度距離を置いて、猫の気持ちを尊重して接していた気がする。
だから同年代の友達が家に来て猫をやたらと抱こうとするのを見ると、
子供心に「わかってないなあ。」と思っていた。

家は貧しかったけど、両親は自分を色々な所に連れて行ってくれた。
日帰り旅行、極々たまに1泊旅行、(もちろん車なんて無かったので電車で。)
都内の様々な遊び場、映画、etc。
父親が写真をよく撮っていたのでアルバムにそれらの思い出が残っている。
楽しい思い出ばかりだ。このことでは両親に本当に感謝している。

それから両親が映画好きで、テレビ映画をよく一緒に見ていた。
その影響で美しい映画音楽が大好きになった。
田口が音楽を大好きになったルーツは両親と一緒に見た映画にあると思う。
昔の映画音楽はシンプルで美しいメロディのものが多いので、
今でも基本的にそういった音楽が好きだ。シンプルで美しいメロディライン。

小学生になっても、もちろん性格が変わるわけでもなく、
人見知りで引っ込み思案で小心者だった。
同じクラスの人間とはあまり遊んでいなかった気がする。
その代わりに近所に住む他のクラスの数人と仲良くなって、
毎日毎日遊びまくっていた。
人見知りで引っ込み思案で小心者だったけど、一旦仲良くなればだいじょうぶ。
小学生時代の6年間をほとんど同じメンバーで遊んでいた気がする。
そのなかには勉強ができる友達や運動が得意な友達や、
ユーモアがすごくある友達がいて、みんなすごいなあ。と思っていた。
そんな友達の中で自分は特に目立つ所が無い普通の子供だったと思う。

小学校2年生の時に妹ができた。
8つ歳が離れた妹ができた。

野球チームに入っていて、7番とか8番バッターで外野とかを守っていた。
ちっともうまくはなかったけど、ユニフォームを揃えて、
日曜日には母親にお弁当を作ってもらい、グラウンドの場所を取るために、
朝早くから出掛けて、夕方まで野球をしていた。
少年野球大会とかに出たけれど、コールドゲームでボロボロに負けた。
それぐらいのレベルの野球少年だった。

小学校1・2年の時に他のクラスに好きな女の子がいて、
住所を頼りにその子の家を見に行ったことがある。
でも、その女の子とはほとんど口をきいたことが無かったし、
人見知りで引っ込み思案で小心者だったので、告白なんてしなかった。
大人になって、渋谷のスクランブル交差点を渡っている時に、
偶然その彼女を見かけたことがある。絶対に間違いなく彼女だった。
でも、茶色い髪に真っ赤な口紅に真っ赤なコートを着て、
すごく派手な感じで、なんだかすごくがっかりしたのを覚えている。

小学校高学年になって同じクラスの池田君と岸君が、
僕を相手にプロレスごっこみたいなことをして遊び始めた。
まあまあ仲が良かったほうだし、イジメというわけでもなく、
ふたりにしてみれば、単なるプロレスごっこにすぎなかったんだろうけど、
僕はそれがイヤで嫌でしかたなく、何日か仮病で学校を休んだ。
学校に行くのがとにかく嫌で、そのことを考えるとなかなか眠れなかった。

成績は普通。良くもなければ悪くもない。
おとなしくて目立たない子供だったと思う。
卒業アルバムで「将来なりたいもの」的な作文を書かされて、
本当はプロボウラー(ボウリング)になりたかったのだけれど、
恥ずかしくて言えなかったので、サラリーマンになると書いた。
「普通のサラリーマンになって、まじめに仕事をしたい。」とウソを書いた。
今でもそのアルバムを持っている。

つづく。


まじめ週間。

「まじめ週間」って何だ?

ええ、いつも不真面目な感じなので、たまには真面目にしてみよう。

だから「まじめ週間」。そんな「まじめ週間」。

何かまじめなことを1週間続けて話してみようというそんな企画。

何のために、誰のために、そんなことするのかわからないけど。

ていうか、それ以前に、いいのか?そんなことしていいのか?

たぶんものすごく長くなると思います。不真面目でもいつも長いのに。

そんなことしたらとてつもなく長くなる予感。

ごめんなさい。許して下さい。今のうちに謝っておきます。

いかんいかん、前置きだけで長くなってしまった。

すでに長くなっているので、明日から始めようっと。

ずるいな。




きょうはクリスマス・イブ。

これから夜勤に行ってまいります。

みなさまに素敵なクリスマスが訪れますように。

メリークリスマス!

みんなしあわせになるがいい!





きょうのBGM:ビング・クロスビー - ホワイト・クリスマス
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田口。東京出身で千葉県在住。妻と高校生の娘と三毛猫タマと慎ましく暮らす。1日の半分以上は音楽のことを考えてる。最近はSuperflyにどっぷり。Macintoshとコーヒーと猫がかなり好き。そしておもしろいことが好き。

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